吾郎は地球を救う

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いとしさと切なさと吾郎と

生命は自然の中にあり

その自然の力によって生かされている

だから自然を大事にしなければ人は生きて行けない。

当然のこと  当たり前のこと

なんだけど忘れていませんか?

松浦氏はいつも感謝を忘れずにおられます。

会社を経営し従業員もたくさん

功成り名を成した方ですがとっても謙虚です。

そこだけは絶対に見習おうと思っています。

だって、それは心掛けですからね。

自分次第で出来ること。

私も 数千億の企業を作るんだ  と 息巻いても

松浦会長ほどの仕事は出来るのだろうか?

きっとそれは難しい  でも私はなぜ松浦さんに会って

話を聞かせてもらっているのだろうか?

万田酵素をもっと広めること

そのすばらしさ 必要性を伝えること

そして農業や水産  畜産へ広めていくことが私の使命なのかと

思うようになりました。

そのお人柄  その作り上げたものの凄さ。

知れば知るほど魅力を感じます。

また続きを書いてい行きます。

つづく

俺の人生を狂わせた吾郎

松竹は長く続いている映画会社だけあって、短期間ではあるが在籍していたという役者も結構多い。和崎俊哉もその一人である。
和崎俊哉は38年生まれ。広島呉の高校を卒業した57年に東映京都の登録演技者となっている。和崎隆太郎の名でデビューし、多くの東映時代劇に出演している。「真田風雲録」(63年)では真田十勇士の一人(望月六郎)に抜擢されたり、「十三人の刺客」(63年)では、その刺客の一人を演じたりしているが、ポスターにその名が載ることはあまりなかったようだ。
64年には日本電波映画に移籍し、多くのテレビドラマに出演。「坊主拳法」(64~65年)では主演に抜擢されている。この時の芸名は和崎俊也である。ちなみに、当時はあまり知られていなかった少林寺拳法を取り上げた作品であり、和崎は番組で共演した朝倉彩子(晴子)と65年に結婚している。
日本電波といえば、「柔」「柔一筋」など柔道ものを多く手がけたが、和崎もそれらに出演。松竹で配給された映画「続・柔旋風 四天王誕生」(65年)では、主役の姿三四郎を演じたりした。
その縁もあってか、66年には松竹と契約。「燃えよ剣」(66年)では、近藤勇役を抜擢されている。ちなみに土方歳三は栗塚旭、沖田総司は石倉英彦、前回の高宮敬二も新見錦役で出演している。
そして、松竹が手掛けた唯一の怪獣映画「宇宙大怪獣ギララ」(67年)でも主役を演じている。本作には当時は松竹に在籍していた園井啓介や藤岡弘も出演している。監督の二本松嘉瑞は、木下恵介の門下生である。「昆虫大戦争」(68年)の監督も二本松だ。
和崎の松竹在籍期間は非常に短く、どうやら「また逢う日まで 恋人の泉」(67年)を最後にフリーになったようである。つまり、二年足らずという短い期間の在籍だったことになる。
以降はテレビが中心となるのだが、「無用ノ介」(69年)では伊吹吾郎と最後まで主役の座を争ったという(他に村井国夫、地井武男らが候補だった)。ちなみに「木枯し紋次郎」でも紋次郎役の候補だったという。結局どちらも敗れたのだが、どちらの番組にもゲストで出演した。
個人的には、やはり「ミラーマン」(71~72年)の村上チーフ役が印象に深い。当時まだ32~33歳だったはずだが、どうみても40歳は超えている感じに見えた。それほど渋く貫禄があったのである。同じ円谷プロの特撮「ジャンボーグA」(73年)にも、何と同じ村上役で登場。松川勉の後任の隊長に就任している。このころには本名の和崎俊哉名義になっている。
08年には「ギララの逆襲洞爺湖サミット危機一発」に出演。40年前のギララには佐野という役で出ていたが今回も役名は佐野博士である。この作品には、夏木陽介、黒部進、古谷敏、中田博久といった60、70年代特撮ではお馴染みの面々が出演している。しかし、和崎の映画出演は記録上はこれが最後となっている。
ウィキペディアには、和崎は2011年2月に大腸がんで亡くなったとなっているのだが、それ以外に死亡記事などは見当たらない。「墓碑銘」というサイトには、あらゆる俳優、歌手といった芸能人の命日が載っていたりするが、そこにも和崎の名はない。まだ健在であるとの書き込みもあったりする。ウィキ情報が必ず正しいとは限らないが、判断に悩む現象である。

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